ディスプレイ小話集 - ディスプレイ小話集

ディスプレイ小話集

ディスプレイ関係の小話。

独断と偏見でディスプレイ小話と裏話的なのを書いていく記事です。全10話(完結)

完結:2013年12月28日(土)

掲載履歴

第1話:液晶パネルを開発した人

1964年に世界初の液晶パネルを開発したRCA社のG. H. Heilmeier氏[1]。同氏は、液晶パネルの基礎の基礎といえるゲスト・ホスト・モード[2]、世界で初めて生産された液晶ディスプレイに使用されたDSM(Dynamic Scattering Mode)[3] [4]の開発者である。

RCA社で、液晶ディスプレイを開発したHeilmeier氏に、RCA社の名誉副会長でテレビ送受信システムなどを発明したV. K. Zworykin氏[5]が(初めて開発した液晶ディスプレイを見た後に)『どのようにして、これほど多くの知られていなかった重要な電気光学効果を発見できたのか。』と尋ね、Heilmeier氏は『stumbled(つまずいたからです)』と返答した。

この答えにZworykin氏は、『つまずいたからか…前進していたからつまずいたんだろうね』と返答した。Heilmeier氏はこれを忘れられない言葉といっている。

個人的に好きな話し。

ちなみに。Heilmeier氏は液晶パネル以外では…1970年代にはアメリカの軍事技術を研究するアメリカ国防総省の機関であるARPA(Advanced Research Projects Agency)[6]の局長として、航空機がレーダーに映らないよう“不可視”にする技術、水中の潜水艦を探索できるようにするため海を“透明”にする技術などの開発を行なっていた。1980年代にはTexas Instrumentsで上級副社長兼技術技術責任者として、CMOS、赤外線画像技術、DLP(Digital Light Processing)の設計などを行い、この時に開発したDLPの技術は、標準的な技術になっている。現在では複数の会社、大学で委員を行なっている。

注釈

  1. George Harry Heilmeier。
  2. 多色性色素を混ぜたネマチック液晶に直流電流を印加すると赤色から無色に変化する現象のこと。Heilmeier氏が1964年に発見(開発)した。世界初の液晶ディスプレイ。
  3. 垂直配向させたネマチック液晶に直流電流を印加すると水平配向に変化する。垂直配向では液晶は透明に見え、電圧を印加すると(水平配向になり)液晶分子配向が不安定になるため光が散乱して、液晶は不透明(白濁する)に見えることになる。これがDSMの原理であり、これをディスプレイに用いる。Sharpが世界で初めて“製品”に使用した。
  4. 日本語では動的散乱モードという。なお、DSMのMは“mode(方式)”であるため、DSM“方式(モード)”とは書かない。
  5. Vladimir Koz'mich Zworykin。
  6. 後にDARPA(Defense Advanced Research Projects Agency)になり、またARPAとなり、現在のDARPAとなる。

参考資料

  • 稲盛財団京都賞 記念講演会講演録(2005)
  • ITE Vol.60 pp.321-325(2006)
  • NIKKEI MICRODEVICES Jane 2007 pp.73-81

2013年8月31日掲載開始

第2話:偶然のようで偶然ではない発見

1968年6月にアメリカのRCA社が画期的なディスプレイを発表、公開し、世界中の注目を集めた。液晶ディスプレイである。この発表を見た早川電機[1]の和田氏により、早川電機において液晶ディスプレイの研究、開発が行なわれることになった。

しかし、液晶ディスプレイの要である“液晶”に手を焼いていた。

液晶という言葉でまとめられているが、液晶は自然界に数万種類以上存在し、また有機化合物であるため混ぜ合わせることができる。数万種類から液晶ディスプレイに使用ができる“液晶”を探し出す必要があった。

1971年に転機が訪れる。当時、液晶研究グループでは液晶の純度を上げること、直流の電圧を印加するという実験を繰り返していた。液晶の寿命が短いのは純度が低いためという仮説を立てていたためである。

11月に研究グループの1人である船田氏が、前日に実験で使用した液晶入りのビンの蓋を閉め忘れるというミスをしてしまう。液晶の純度を上げることが開発の道筋であったため、船田氏はこの液晶は使うことができないと考えた。しかし、高価[2]な液晶を捨てるのは勿体無いと考え、以前より考えていた不純物を混ぜた液晶に交流電圧を印加する実験を行なうことにした[4]

その結果、今まで良くても数ヶ月しかなかった液晶の寿命が大幅に伸びたのである[5]。蓋を閉め忘れることと、それを使って見ようという考えが発見を生んだのである。

この発見は偶然に思えるかもしれないが、船田氏には不純物を混ぜた液晶に交流電圧を印加するという間逆の考えが元々あったため発見できたのである。ビンの蓋を閉め忘れたのは偶然だろう…おそらく。

こうして大きな問題であった液晶の寿命の問題は解決した。しかし、解決方法であった“交流電圧”により、世界初の液晶ディスプレイの製品化が遅れることになったのは皮肉である[6]

ちなみに、RCA社ではシッフ・ベイセスと呼ばれる液晶材料を発見していた。これにも裏話があるが、これはまた別のお話し(第6話)。

注釈

  1. 現在のシャープ。
  2. 和田氏が1人で研究を開始した1970年当時、液晶を日本で市販しているメーカーがなかったためアメリカのバリライト社[3]から購入していた。その価格はなんと12,000円/1gである。後に大日本インキ化学工業と液晶の共同開発が行なわれている。
  3. バリライト社と和田氏は書いているが、当時液晶を販売していた会社はILIXCO(International Liquid Xtal Company)があるだけなので、謎である。ちなみに、この会社はTN方式を初めて開発したひとり“かも”しれないFergason氏によって設立された(“かも”については「TN方式」の記事へ)。
  4. 元々この方法による実験の考えはあったそうだが、液晶が高価(上述)であったこと、液晶の純度上げることを命題としていたため実験できていなかった。
  5. 液晶に直流電圧を印加をすると電気化学反応が発生して液晶の寿命が大きく低下する。しかし、交流電圧かつ液晶に不純物が混じっていると電気が流れやすくなり電気化学反応がなくなるため寿命が延びることになる。
  6. 製品化された世界初の液晶ディスプレイはシャープの電卓に用いられた。液晶開発の目処が付いた液晶グループは電卓採用してもらうことを電卓グループに申し出たが、交流であるため非難が集中し拒否された。当時の電卓は直流だったためである。

参考資料

  • プロジェクトX 挑戦者たち(8)
  • ITE Vol. 60 No. 3 (2006) pp.321-325

2013年9月8日掲載開始

第3話:初めから存在した“Cs”

“Transistor(トランジスタ)”。真空管に変わる新しい技術としてShockley氏[1]により発明された。

日本ではソニーの創始者[2]である井深氏がWE社[3]のトップとの食事会中に“トランジスタ・ラジオを作る”と言い笑われたが、実際に製品化して世に広まった。現在の“便利な世界”を作っている“大事なもの”である。

このトランジスタを液晶パネルの各ドットにスイッチング素子として形成して個別に制御することで表示する“アクティブ・マトリクス駆動”は、現在の液晶パネルの基本技術であり、この概念は1968年にアメリカRCA社のLechner氏[4]により発表された。この記者発表の場で同氏は“液晶テレビの基本的な概念はここに完成した”と発言している。

1971年には、現在のアクティブ・マトリクス駆動の液晶パネルで用いられている回路を発表しており、ここに“Cs”が存在していた。この“Cs”とは“Storage Capacitor”[5]のことで、ドットを均一に駆動させるために必要不可欠なものである。

各ドットに形成されたTFTはスイッチング素子の役割をする。“Cs”は、TFTのオン期間から次のオン期間までの期間(1フレーム分)の電荷を保持する役割をする。“Cs”により、1フレーム間の所望の階調電圧を画素電極に安定して印加することが可能になる。

当時はあまり重要視されていなかったが、アクティブ・マトリクス駆動のTFT液晶パネルの実用化が進むにつれ、この“Cs”の必要性が知られるようになる。Lechner氏は、1971年時点でCsの必要性に気が付いていたのである。

概念の発表から数年後の1973年に世界初のTFT液晶パネルが誕生する。 しかし、Lechner氏が述べた液晶テレビの誕生には、アモルファスシリコン[6]の実用化、液晶パネル駆動回路の実用化という大きな難題が存在した。1971年にLechner氏は“300万個もの画素とその周辺回路を均一に動作させるために、多くの技術的課題を克服しなければならない”と述べている[7]

1968年の概念の発表から約20年後にシャープが14型、さらに6年後に21型の試作に成功した。液晶テレビの実用化には、概念の発表から約25年の歳月が必要であった[8]

アクティブ・マトリクス駆動の液晶パネルには概念の時から“Cs”が存在した。そして、これからもこの重要性は変わらず存在する。

注釈

  1. William Bradford Shockley Jr.。
  2. 当時は東京通信工業という社名だった。
  3. Western Electric(ウェスタン・エレクトリック)の略称。
  4. Bernard J. Lechner。
  5. 日本語だと蓄積容量、保持容量など。
  6. 結晶性ではなく、非晶質のシリコンのこと。この非晶質であるシリコンを砕くと結晶質に変わるという特徴を持つ。分子の並びが“でたらめ”であるため、電子の流れが悪い。ちなみに、アモルファスシリコンが砕かれる際の詳細な観察を行なったのは日本人研究者である。
  7. 現在の液晶パネルは1画素を3ドットで構成している。1,920×1,080(Full-HD)の液晶パネルは2,073,600個の画素と6,220,800個のドットで構成されており、今後主流になる3,840×2,160(QFHD。通称“4K”)は8,294,400個の画素と24,883,200個のドットで構成されている。また、1画素を4ドットで構成するものもある。
  8. 小さいサイズであればこの数十年前から存在していたが、“本格的なテレビ”となると大画面化が必要である。

参考資料

  • NIKKEI MICRODEVICES July 2007 pp.75-82
  • 日本の半導体四〇年 中公新書

2013年9月13日掲載開始

第4話:批判されたデファクトスタンダード

液晶パネルが開発、実用化され、次の目標が定まった。カラー表示化である。考案された方法は複数あったが、長所があれば大きな短所が存在する方法が多く、実用化には時間が掛かった。

1981年、東北大学の内田龍男教授[1]により、マイクロカラーフィルタを用いてカラー表示をする“マイクロカラーフィルタ方式”が考案された。液晶セル内に、人間の目の解像度を超える赤、緑、青の3色で1画素を構成するカラーフィルタを設け、加法混色[2]によりカラー表示を行なう方法である。

しかし、このマイクロカラーフィルタ方式には、大きな欠点がある。光透過率が低いのである。

開発当時の液晶パネルの大きな利点のひとつに低消費電力があった。光透過率の低下は、消費電力を上昇させる要因になる。実際問題として、カラーフィルタの光吸収率は80パーセント程度あり、光のほとんどを吸収する。残り20パーセントあるが、液晶パネルには光の振動する向きを制御する偏光板があり、ここでも数10パーセントが損失する。このため、液晶パネル全体での光透過率は5-10パーセント程度しかない[3]

このため、内田教授には批判があった[4]。この批判を受け内田氏は、低消費電力で動作する反射型フルカラー液晶パネルの開発、フィールドシーケンシャル方式による液晶パネルの開発を行っている。

このような欠点があるが、マイクロカラーフィルタ方式によるカラー表示は、液晶パネルではデファクトスタンダードである。

「液晶パネルでのブレイクスルーは何か?」となれば、この“マイクロカラーフィルタ方式”がそのひとつであることは間違いない。

注釈

  1. OCB方式の考案者でもある。OCB方式についてはこちら(内田教授についても記述あり)。
  2. 光の3原色(赤、緑、青)を使用して色を作る方法のこと。
  3. 現在でもこの透過率の問題は存在し、透過率もこの当時と差ほど変わっていない。それでも年々コンマパーセントであるが改善してきている。それぐらい透過率の向上は大変である。
  4. もちろん内田教授はこれ以外の複数の方法を数年掛け研究している。それで行き着いた結論がこのマイクロカラーフィルタ方式である。光透過率が低いことは内田教授が一番分かっており、これが反射型フルカラー液晶パネル、フィールドシーケンシャル液晶パネルの開発につながることになる。

参考資料

  • ITE Vol.63 No.10 (2009) pp.1354-1357

2013年9月21日掲載開始

第5話:灯台下暗しの100年史

1912年(大正元年)9月15日 - 早川徳次氏が東京市本所区松井町1丁目30番地[1]に金属加工業を開業した。現在のシャープである。

開業から100年経った2012年(平成24年)に100周年を迎えたシャープは、“シャープ100年史”を発刊する。早川徳次氏のことから、2012年までのシャープを振り返ることができる。だが、一部で間違いが見られる。

シャープ100年史第5章(pp.5-05)で以下の記述がある。

1969年1月、RCA社の液晶ディスプレイ(以下、液晶と記す)を紹介するNHKのテレビ番組が放送され、これを見て衝撃を受けた当社の研究者が会社上層部を動かし、基礎研究が開始された。

シャープ100年史第5章 pp.5-05 より

ここで記述されている研究者とは、和田富夫氏[2]のことである。この100年史では、和田氏は、NHKの番組で液晶を見て研究を開始したと書かれているが、事実は異なる。

RCA社のHeilmeier氏が液晶パネルを世界で初めて開発したことは第1話で取り上げた。この発表は1968年6月に行なわれている。和田氏はこの発表を見て、液晶パネルは将来重要な技術になると感じ、シャープの佐々木氏[3]と三戸氏[4]の両名に、液晶パネル調査のためRCA社を訪問して欲しいと依頼している[5]。そして両名は、その年の秋にRCA社を訪問し、帰国している。

両名はRCA社から液晶パネルの原理、研究状況などの資料を持ち帰っているが、RCA社にシャープ用の液晶パネルを開発してもらう依頼は断られている[6][7]。このため、和田氏が自分で研究を行なうと佐々木氏に懇願し、研究がスタートしている[8]。なお、シャープでの液晶開発プロジェクトは、1970年から始まっている[9]

1968年秋にNHKはRCA社を訪問し、1969年1月16日に和田氏が見た番組を放送した[10]。和田氏は原理などは知っていたが、実際に動作するのを見た事がなかったため、NHKのテレビ番組に驚きと感動を覚えたという。

以上が和田氏により、語られた事実である。

なぜ、シャープ100年史ではこのようなミスが起きているのか。これはNHKが原因である。NHKに“プロジェクトX”という番組および書籍が存在するが、これにシャープの液晶開発の話しがある。この液晶の話で年史と同じことが語られている。そう、シャープ100年史はプロジェクトXが元になっているのである[11]

しかし、一番の問題はシャープである。上記で書いた事実は“シャープ技報”で和田氏本人が書いた内容を元にしている。なぜ、自社で発行している資料を参考にせずに外部の資料を参考にしたのか。

100年史という、ほとんど企業が経験しない年史において、これほど平凡なミスが存在するのは、残念である。

注釈

  1. 現在の東京都江東区新大橋。
  2. 世界初の液晶パネル“製品化”での中心人物。シャープでの液晶開発初期ではひとりで研究を行なっていた。
  3. 佐々木正。シャープ電卓の生み親、“ロケット佐々木”などの異名がある。異名通り、和田氏からの依頼により、1968年の秋にはアメリカのRCA社に直接訪問を行なっている。
  4. 三戸左内。大阪市立大学教授からシャープに入社。シャープ電卓だけではなく世界初のLSI電卓で佐々木氏とともに中心的人物であった。
  5. 当時RCA社とシャープはブラウン管テレビで技術契約を行なっていた。シャープを代表する2人が訪問すれば、丁寧な対応をしてもらえると和田氏は考えた。
  6. 液晶ディスプレイの開発依頼は、当初の予定なのか、佐々木氏が実際に液晶を見て将来性を感じたためその場で申し込んだのかは不明。佐々木氏のため、後者の可能性は捨てきれない。
  7. 佐々木氏の申し出に、RCA社の半導体事業部の責任者であり副社長であったVonderschmitt氏[12]は『液晶ディスプレイは応答速度が遅く、時計用であれば対応出来るが、電卓は高速応答が必要であり対応できない』と断っている。
  8. 和田氏は何時佐々木氏に研究のお願いをしたのか明記していない。このため、NHKの番組を見た後なのか、佐々木氏からRCA社の返事を聞いた後直ぐなのか、不明である。なお、和田氏が複数回液晶パネル開発について書いているが、全てNHKの番組のことを書く前に研究を佐々木氏にお願いをしたと書いている。
  9. 和田氏を含む計8名でスタートした。なお、この前に基礎研究を和田氏ひとりで行なっているが、時期は不明である。
  10. 番組名は“世界の企業・現代錬金術”。
  11. 液晶プロジェクトスタート時のプロジェクトXの話しと和田氏が語った話にはかなりの乖離がある。和田氏の話しでは佐々木氏はRCAに直接訪問しているが、プロジェクトXでは番組を見た和田氏から話しを聞き、後に連絡を取ったとしている。
  12. Bernard V. Vonderschmitt。Xilinx社の共同創始者であり、FPGA(Field-Programmable Gate Array)を世界で初めて製品化したひとりである。

参考資料

  • シャープ100年史
  • プロジェクトX 挑戦者たち(8)
  • シャープ技報 第96号(2007/11)pp.46-47
  • ITE Vol.60(2006)pp.321-325

2013年11月14日掲載開始

第6話:黒板に書かれた構造式

1968年6月、世界初の液晶パネルがアメリカのRCA社から発表された。その年の秋、NHKはRCA社のDavid Sarnoff研究所を訪れHeilmeier氏を取材する。この取材の際、研究所では研究内容が外部に漏れないようにするため、試薬ビンのラベルをすべて裏返すという作業を行なっている。

しかし、細かいところに気を使いすぎたのか、黒板に書いてあった液晶の“シッフ・ベイセス”の化学構造式を消していなかった[1]第2話で取り上げたが、当時液晶パネルの最重要部材の液晶は最高機密といっても良いほどである。この化学構造式を日本全国のお茶の間に公開してしまったのである。

日本でRCA社の液晶パネルを知っていた液晶研究者に諏訪精工舎[2]の山崎氏[3]がいた。日本において初のTN方式[4]の液晶パネル製品化で重要な役割を果たした人物である。同氏はこの番組を見ていなかった。『もしこのビデオを見ていれば、シッフ・ベイセスの探索で苦労する必要はなかった』と語っている。氏は、DSM[5]用のシッフ・ベイセスを開発していたが、DSMの限界からTN方式に開発を変更している。

もし、山崎氏が番組を見ていれば、早々とDSMの液晶パネルが製品化され、そして日本においてTN方式の製品化は遅れていたかもしれない…と言いたい所だが、そうことは簡単ではなかったかもしれない。

このNHKの番組を見ていた研究者がもうひとりいた。第5話で取り上げた和田氏[6]である。和田氏は一瞬写った液晶の化学構造式を見ており、“結合子にシッフ塩基[7](RCH=NR)を用いており、anisylidene-p-aminophenylacetate[8]である”ことまで理解している。しかし、第2話で取り上げた通り、実用化するまでここから数年掛かっている。

なぜ、RCA社が黒板の数式を消し忘れたのかは謎であるが、シッフ・ベイセスの開発が難しかったのは確かである。

注釈

  1. 参考にした資料の著者川本氏は、『当時“技術後進国”と思われていた日本に見せても「追いつかれることはないだろう」という判断だったのかもしれない。』と書いている。和田氏は、『なぜRCAが構造式を消し忘れたのか謎である』と書いている。
  2. 現在のセイコーエプソン。
  3. 山崎淑夫。諏訪精工舎で化学技術者で、TN方式の液晶の開発した。RCA社の液晶パネルを知り、直ぐに研究資料などを取り寄せ、液晶の研究を行なっている。本文の通り、当初はDSM用の液晶を開発していたが、構成と信頼性からTN方式用のネマチック液晶の開発に変更した。この液晶は、1973年10月に日本初のTN方式に使用された。
  4. Twisted Nematic。液晶方式のひとつ。詳しくはこちら
  5. Dynamic Scattering Mode。液晶方式のひとう。詳しくは第1話
  6. 和田富夫。早川電機(現在のシャープ)で世界初の液晶パネル製品化の際の中心人物。
  7. シッフ・ベイセスの元になるシッフ塩基のこと。シッフ塩基は“Schiff Base”、シッフ・ベイセスは“Schiff’s bases”と書き、シッフ塩基類という意味。
  8. 和田氏が書いた通りだと本文通り。正確に書くと“anisylidene para-aminophenylacetate”となり、略称は“APAPA”。アニシリデン・パラ・アミノフェニル・アセテート。

参考資料

  • ITE Vol. 60 No. 3 (2006) pp.321-325
  • NIKKEI MICRODEVICES Jane 2007 pp.73-81

2013年11月23日掲載開始

第7話:ブラウン管に固執したRCA社

ここまでの各話で複数回登場するアメリカのRCA社[1]。液晶パネルの開発話しで当然の如く登場する同社であるが、1970年代後半になると影を潜め、現在は会社すら存在しない。

なぜ、RCA社は液晶パネルで巨額の富を得れなかったのか。

液晶という物質は1888年にオーストリアの植物学者Reinitzer氏[2]により発見され、1898年にドイツの物理学者Lehmann氏[3]が液晶に複屈折性[4]を発見したため、液晶と名付けたことから始まる[5]。この発見から数十年、液晶は特別話題になることはなかった。

1962年にRCA社のWilliams氏[6]によりウイリアムス・ドメイン[7]が発見される。これが1964年のHeilmeier氏[8]のDSM発見につながることになる。1968年5月に第1話などで取り上げた世界初の液晶ディスプレイがRCA社で発表された。液晶は発見からなんと80年後である。

この後、RCA社の技術者は今の液晶パネルの基礎を次々と発表する。第3話で取り上げたアクティブマトリクス駆動の開発、TN方式[9]を開発したひとりであるHelfrich氏[10]はRCA社出身[11]である。

しかし、1970年にRCA社はある決定を行なっていた。液晶パネルの事業化を行なわないという決定である[12]。理由は簡単であった。当時、RCA社はカラーブラウン管を実用化し、シェアは世界一を誇っていた。その収入は莫大である。そんな中、液晶パネルの事業化は、ブラウン管事業すら危うくすると判断したのである。

この判断が間違いであったかは人それぞれで評価が分かれるだろうが、RCA社で液晶を開発していた技術者達の判断は簡単であった。会社をやめたのである。当時、液晶パネルは大きな注目を浴びており、この分野でパイオニアであるRCA社の技術者は当然ながら引く手数多である。再就職は容易であった。

Heilmeier氏は、第1話で取り上げた通りホワイトハウス・フェローからDARPA長官になっている[13]。TN方式を開発したひとりであるHelfrich氏はスイスのHoffmann-La Roche社に移り、そこでTN方式を開発し、特許申請を行なっている。この特許により、Hoffmann-La Roche社は莫大な特許料を得ている。

RCA社はその当時にあった技術を優先し、未来の技術を捨てる決断をした[14]。これが間違っていたのか答えを出すことは難しいが、今RCA社が存在しないことがひとつの答えなのかもしれない。

注釈

  1. 半導体、テレビ関係の技術において重要な役割を果たした企業である。接続ケーブルであるRCA端子(赤、白、黄のケーブルのこと)のRCAは、このRCA社のことである。
  2. Friedrich Reinitzer。
  3. Otto Lehmann。
  4. 複屈折とは、ひとつの入射光に対して、2つの屈折光が現れる現象のこと。
  5. 当然であるが、ドイツ人による発見のため、ドイツ語で液体と結晶という単語を組み合わせた“fliessende krystalle”と名付けた。日本語では液体と結晶を組み合わせ“液晶”と訳された。英語でも同様で、liquid(液体)とcrystal(結晶)を組み合わせ“liquid crystal”(略称で“LC”)と訳された。
  6. Dick Williams。
  7. Williams Domain。ネガ型液晶(誘電率異方性が負)を2枚の透明電極に挟み、電圧を印加すると特有のパターン(縞模様形態)が現れること。
  8. George Heilmeier。詳しくは第1話
  9. Wolfgang Helfrich。
  10. Twisted Nematic。液晶方式のひとつ。詳しくはこちら
  11. TN方式の開発自体はHoffmann-La Roche社で行なっている。しかし、基本的な部分はRCA社で考案しているという。これには複数理由ある。RCA社が液晶パネルを事業化しなかったというのもあるが、当時の上司であったHeilmeier氏がTN方式の提案を受け入れなかったためである。
  12. 液晶パネルの発表は、ブラウン管を過去のものにすると思わせた程インパクトがある物であった。そのため、RCA社以外は挙って液晶パネル開発に注力した。そして、やめていった。開発に成功したのは、ほんの一握りである。後にシャープが液晶パネルの製品化に成功したため、また一部メーカーでは開発が再開された。
  13. RCA社を去る際の昼食会で、『私を追い出してくれたRCA社に感謝の意を申し上げたい』というコメントをしている。
  14. 同じ過ちをした企業が日本にも存在する、ソニーである。ブラウン管である“トリニトロン”を開発したソニーは、液晶パネルが台頭し始めてもトリニトロンに固執し続け、投資を行なわなかった。ブラウン管の時代が終わると、液晶パネルの生産をお金と技術を引き換えに、韓国のサムスン電子との合弁企業S-LCDを設立したが、実質は“製造委託”である。

参考資料

  • NIKKEI MICRODEVICES Jane 2007 pp.73-81
  • NIKKEI MICRODEVICES July 2007 pp.75-82
  • PROCEEDINGS OF THE IEEE, VOL. 90, NO. 4, APRIL. 2002

2013年12月4日掲載開始

第8話:特許戦争の勝者

現在の液晶パネルの基礎方式であるTN方式[1]。このTN方式の開発者は現在でもよく分かっていない。いや、正確にいえば、2組いることだけわかっているが、どちらが先に開発したのかが不明なのである。

一般的にTN方式の開発者といわれているのは、スイスのHoffmann-La Roche社[2]で開発を行なったHelfrich氏[3]とSchadt氏[4]である。元々のアイディアは、Helfrich氏がRCA社時代に考案したそうだが、RCA社が液晶パネルを事業を行なわない決定をしたため(第7話参照)、Hoffmann-La Roche社のSchadt氏の誘いを受け、Hoffmann-La Roche社に移り開発を行なった。同氏はHoffmann-La Roche社に移ってからわずか数週間で実験に成功し、1970年12月4日にスイスとイギリスで特許を申請、1971年2月に論文を発表している。

もうひとりTN方式の開発者といわれているのがFergason氏[5]である。氏の特許申請はアメリカで1971年4月22日に行なわれ、Helfrich氏らより遅い申請である。しかし、当時のアメリカは先発明主義[6]であったため、氏は1970年4月5日に実験が成功した書類を提示し、特許として認められている。

Helfrich氏らとFergason氏の特許を争いは壮絶だったが、結末は呆気なかった。Fergason氏は自身の特許権をHoffmann-La Roche社に譲渡したのである。この結果、どちらが先に開発したか不明のまま、TN方式の特許権はHoffmann-La Roche社が保有することになった。当然だが、Hoffmann-La RocheはTN方式により莫大な特許料を得ており、まさに独り勝ちの様であった[7]

注釈

  1. Twisted Nematic。液晶方式のひとつ。詳しくはこちら
  2. F. Hoffmann-La Roche社。製薬会社として有名。
  3. Wolfgang Helfrich。
  4. Martin Schadt。
  5. James Fergason。
  6. 特許の出願日ではなく、発明した日が早ければ、出願日が遅くても発明者として認められるという考えである。先に発明したことを証明できる書類を提示し特許庁が認めれば特許として認められる。近年ではアメリカのみが先発明主義だったが、2011年に特許法を改正し先願主義へと移行され、2013年3月16日に改正法が施行され、現在のアメリカは先願主義である。
  7. 1995年に日立製作所がIPS方式(詳細)、1997年に富士通がMVA方式(詳細)を開発するまで、TN方式が液晶方式の大半を占め、後はSTN方式(詳細)であった。

参考資料

  • NIKKEI MICRODEVICES Jane 2007 pp.73-81

2013年12月08日掲載開始

第9話:当てが外れたMVA方式

1997年に富士通が画期的な開発を行なった。MVA方式[1]である。

富士通が開発したMVA方式は、VA方式でのディスクリネーション[2]の低減、ラビングレス[3]、4ドメインの配向分割[4]を実現する画期的なものであり、現在液晶パネルで使用されているVA方式は、この富士通の技術が基礎になっている。

当然優れた技術であったため、富士通ではMVA方式を製品化することを決定した。

配向分割により通常のシングルドメインVA方式に比べれば広い視野角を持っていたが、液晶が持つ複屈折を補償する必要がある。このため、ネガティブCプレート[5]の位相差板[6]を用いることに当初決定したが、液晶の複屈折[7]の値が偏光板保護フィルムであるTACフィルム[8]の値に近かったため、位相差板を用いず、TACフィルムを用いることにした。

しかし、偏光板を供給してもらうメーカーにTACフィルムを増やした偏光板の供給を断られることになる。このため、別メーカーの偏光板を用いようとしたが、偏光板に貼ってある防眩フィルム[9]がMVA方式の特徴である45度のリブ[10]と干渉し、モアレ[11]が発生した。

このような紆余曲折があったため、TACフィルムによる補償を諦め、当時ネガティブCプレートの位相差板を製品化していた住友化学に頼み込んで供給をお願いし、量産に入っている。TACフィルムで代用できるという“欲”が生んだ“悲劇(?)”である。

ちなみに、この初製品化にはネガティブCプレートを用いたが、2軸の位相差板などを用いればさらに視野角が拡大することがわかっていた。後にAプレート[12]とCプレートを使用したものが製品化されている。

現在のテレビ用マルチドメインVA方式は複数枚の位相差板とTACフィルムを用いて超高精度に複屈折の補償を行い広視野角化を実現している。ただ、補償を行なう光学フィルムの枚数が増えれば当然ながら液晶モジュールの厚み、重さが増え、光利用率が低下する[13]

注釈

  1. Multi-domain Vertical Alignment。VA方式のドメイン数を増やした液晶方式のこと。詳しくはこちら
  2. 液晶が電圧印加により駆動する際に、ランダムに方位角を持って駆動すること。
  3. 液晶を配列させるために行なうラビング工程が無いこと。ラビングとは配向(液晶の配列)を行なうために基板に形成した配向膜をラビング布で一方向に擦ること。この工程は、液晶層の汚染やアクティブ素子の破損などを発生させやすい工程である。
  4. 配向方向を複数にすること。これにより、視野角が改善される。
  5. 厚み方向に複屈折を発生させる光学補償フィルムのこと。面内方向(平面上)では複屈折を示さない。
  6. 複屈折で発生した位相の差である位相差を補償するために用いるもの。位相差“板”となっているが、実際はフィルムであるため、位相差フィルムとも呼ばれる。
  7. 屈折が複数あること。
  8. トリアセチルセルロース(Triacetylcellulose)のこと。偏光板の保護フィルムとして用いられる。
  9. 反射を低減するために、液晶パネルの表面に貼り付けられるフィルムのこと。非光沢処理、アンチグレア処理、ノングレア処理とも呼ばれる。
  10. 配向分割を行なう際に使用される構造物のこと。詳しくはこちら
  11. 同じ模様を重ねた際に、周期のずれにより発生する縞模様のこと。干渉模様(モアレ図形)干渉縞とも呼ばれる。
  12. 資料ではネガティブAプレートかポジティブAプレートかが明記されていない。ちなみに、ネガティブおよびポジティブともに複屈折が面内方向(平面上)で発生する1軸フィルムのことである。ネガティブは負、ポジティブは正の光学軸を有する。
  13. テレビ用のMVA方式とモバイル用MVA方式とで視野角の差が大きい理由でもある。

参考資料

  • NIKKEI MICRODEVICES November 2007 pp.99-106

2013年12月22日掲載開始

第10話:ラビングの謎

ラビングとは、液晶分子が規則よく一定方向に配列[1]させるために行なう処理のことである。ラビング布と呼ばれる布をローラーに巻きつけて、高分子系の配向膜を一方向にこすることで行なわれる。現在ではラビングレス化が進んでいるが、TN方式[2]とIPS方式[3]とFFS方式[4]ではよく用いられる[5]

このラビングによる配向は、1928年に報告された方法である。90年弱過ぎた現在においても最良の方法である。

しかし、ラビングには欠点が存在する。1つ目にラビングという物理的に配向膜をこするため、液晶が汚染されるというのがある。配向膜をこするため、そのカスが配向膜に残り、液晶を充填するとそのカスにより液晶が汚染されるのである。2つ目に物理的な処理のため、TFTなどがあるアクティブマトリクス方式ではTFTの破損が発生する恐れがあることである。3つ目に“ラビングむら”である。配向膜をこすっているため、輝度むらが発生しやすい。もちろん、これらは時代が進むにつれ改善されている。

ラビングの原理の説明にはラビング布で配向膜をこすると溝ができて、液晶が配向するが一般的な説明である。事実、溝に沿って液晶は配向する。だが、配向膜の材料によっては溝がない場合でも配向する。

1928年の報告から90年弱過ぎた現在でも、なぜラビング布でこすると配向が行なわれるのか、一部解明されている部分はあるが、詳しくは不明である。しかし、液晶パネル製造には欠かせない工程である。

注釈

  1. これを配向という。
  2. Twisted Nematic。液晶方式のひとつ。詳しくはこちら
  3. In-Plane Switching。液晶方式のひとつ。詳しくはこちら
  4. Fringe Field Switching。液晶方式のひとつ。詳しくはこちら
  5. IPS方式およびFFS方式では光配向型の開発が行なわれており、一部では製品化が行われている。このため、全てのIPS/FFS方式がラビング処理を行なっている訳ではない。

参考資料

  • SPSJ Vol.54, May 2004 PP.290-292
  • SFJ Vol.55, No.12, 2004 PP.870-873

2013年12月28日掲載開始

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